
株式会社トラスティー・元会長であり、元東京都城南金属プレス協同組合専務理事を務めた鈴木達五郎が、昭和島・京浜島・城南島の歴史的背景を含めてご紹介させて頂きます。
昭和島・城南島・京浜島が出来るまでの経過
大田区発行の埋め立て地に関する対策の経過によれば、現在の京浜島は1939年(昭和14年)京浜運河掘削工事の計画で、京浜1区から9区までの工事が計画され、総面積982haを造成する予定であった。 しかし、1区(現在の品川区勝島)は完成したが、2区、3区の基礎工事の一部が完了後、戦争の為中止状態となった。 それでも2区の一部には海底を浚渫した土砂が流出せずに残り、辛うじて島らしき形態を保っていた。
戦時中に軍部が此処に東洋で捕まえた、主としてアメリカ軍の捕虜を収容して捕虜収容所とした。 終戦と同時に彼等は解放され巣鴨に移されるまでの間、日本のA級戦犯が収容され、ここを「トージョーハウス」と呼んだ。 この埋め立て地へ渡るには木製の橋があり、橋の前にはMPの立哨する小屋が設けられていた。 A級戦犯が巣鴨に移ってから、この施設は一時引き揚げ者の宿舎として利用され、この島を平和島と呼ぶ様になった。
東京港の接収、太平洋戦争の終結直後の昭和20年9月。 進駐した連合軍によって、芝浦・日の出・竹芝の総ての係岸施設を含む港湾施設は米軍により接収され、芝浦に米軍補給部隊が置かれた。 また、昭和25年には港湾法が公布され昭和31年には東京港港湾計画が策定された。
日本の産業経済が発展するに伴い、工業製品、民生品の原料、製品の流出が活発になり、国内外からの物資が東京に送られてきた。 船で送られてくる物は横浜又は川崎で下ろすより東京で下ろした方が、後の運搬を考えれば有利である。(工業立地論)
このため、日の出埠頭が米軍から返還されると、東京港へ入港する船舶の数が多くなった。 岸壁に接岸出来た船はデリック(動力によって荷をつり上げることを目的とする装置)や吸引装置を使い、半日ほどで荷役を終える事が出来た。
沖がかりをした船は岸壁まではサンパン(沖に停泊する貨物船に乗組員や家族、業者などを運ぶ小さな船のこと)を使い、時には本船に踏み板を渡して沖仲仕(オキナカシ・船から陸への荷揚げ荷降ろしを行う人)がパイスケ(天秤棒の両端にぶらさげて荷を運んだ竹かご)に南京袋を入れて担ぎ上げていた。
これを岸壁でも同じ作業をしなければならず、1万トン級の船になれば荷捌きには3日間ほど必要になる。 その為東京港は、満員になり羽田沖の灯台に入港指示が点灯されるのを待つ船が木更津沖までも占領する状態が続いた。 このため、大井埠頭の完成が急がれたのであるが、昭和46年、工事の竣工時期に貨物の運搬方法が大きく変わり、ほとんどの貨物はコンテナに詰められ、接岸した貨物は開梱される事なく、コンテナのまま陸揚げされてトレーラーで移動される方式に変わった。 従って荷役の時間が大きく短縮され、コンテナ船の荷役は早いもので数時間に短縮された。
戦後日本が高度経済発展の時期に入ると、戦前から市街地に点在し、受注の増加にあわせて設備も増え作業時間も長くなった。 東京都は、美濃部都知事の時代に入り、公害問題がクローズアップされ、貴重な食料の輸入財源としてのドル稼ぎの為に汗水を垂らしながら働いた中小の工業が追われる事になり、用途地域の設定を強化し、騒音・振動・臭気・大気汚染等に関する規制を敷かれたが、特に準工業地区と、住宅地区が混在する地域では、工場と住民の紛争が絶えなかった。
昭和40年代に入ると土地の値段も高騰し、工場経営者は移転を考えてもその候補地を見つける事が困難な状況であった。
京浜3区及び昭和島
その中で京浜3区は、昭和42年に616,044平方メートルの造成が終わり、モノレールの車輌基地と主として京浜地区の公害企業が進出。昭和島工業団地として活動していた。 この地域では、当初、協同組合を設立して協同組合が土地を取得。協同組合から個々の企業の名義に変更される仕組みであった 騒音・振動に対する規制もなく、24時間工場の操業が可能という、事業者にとっては他に無い条件の団地で、業種としては、鍛造業・金属プレス加工業が多数を占めた。 城南地区の市街地にあった他の工場もこの様な立地条件の場所に移転する事を希望していたが、限られた用地に参加する事は難しかった。
京浜6区及び京浜島が出来るまでの経過
京浜6区は、総面積1034,300.11平方メートル。 当初は港湾用地として計画され、埋め立てには市街地に発生した建築廃材・残土の処理場としての任務を担って進められてきた。 昭和45年頃には埋め立てもほぼ完了し、残土は京浜6区を経由し、更に専用のコンベアー橋が造られ、羽田空港の埋め立て用に使われる作業が続けられていた。
前述の如く、昭和45年後期に大井埠頭の荷揚げ形態が大きく変わり、港湾用地に余裕が出来たため、埠頭用地として東京都が計画していた京浜6区が他に転用出来る事になったのである。 そこで当時の公害局が、ここに目をつけ6区の大部分を港湾局から譲り受け大部分の用途地域を工業専用地区に変更。 公害企業の進出に途をつけたのである。 後に6区の住居表示は「京浜島」と名付けられ、京浜島1丁目から2丁目、3丁目となったが、1丁目は運輸・倉庫用地で、2丁目が工業専用地域となった。
しかし誰もがこの場所に出られた訳ではない。 この地域は、個々に分譲するのではなく、昭和島と同じ方式で協同組合を設立させた。
購入の資金はグループ毎に異なり、「中小企業振興事業団からのものは、土地・建物共に65%を貸し付け、35%は自己資金」、 「メッキ協同組合の様に排水の処理に莫大な資金を必要とする組合は公害防止事業団資金」を融資された。
また、協同組合員の企業内容については、業態・経理内容そのものも、東京都経済局のお眼鏡にかなったものだけという制約がついた。 真っ先にこれに取りかかったのが東京鐵鋼協同組合だ。 この組合は、現在も最大の組合員を擁する組合で、組合員総数50を超えるものである。
京浜6区の用途地域の変更は決められたものの、現地はまだ埋立てが進行中のため、組合事務所は蒲田駅前に置き準備を進めた。 この組合の特徴は、他の組合が同一業種であるのに対し、異業種の組み合わせである。従って異業種交流が容易に出来ると云う特徴がある。
次に産声を上げたのが東京都城南金属プレス工業協同組合で、昭和46年3月に結成された。 但し、この時点では埋め立てが困難との事で、大森駅に近い大田区大森北のとあるビルに事務所を設けて準備に入った。 この組合は、金属プレス及び関連企業の業種で結成され、組合員及び入会希望者数20社で発足し、東京都の審査を待った。 その後、都の経済局の審査で、第一次移転は15に留まり、以後2次、3次の企業が入居。組合用地がふさがるのに2年を要した
昭和51年に埋め立て工事が一部を残してほぼ完了すると前後して、第一陣として東京鐵鋼協同組合の一部が工場建設に入った。 続いて、東京都城南金属プレス工業協同組合が昭和51年11月から工場建設に入った。
京浜6区の地盤をボーリングして調査したところ、大昔多摩川もこの方面に流れ込んでいた時期があったようで、東京湾洪積層や、約10m下には砂礫層の下に腐葉土のような柔軟層があり、試験杭を打つと簡単に1mも落ち込む場所もあった。 また、支持層に達するには、60m必要なところもあった。 面白い事に内陸に近い程深くまで支持層に達しない場所があることも分かった。
15mまでならコンクリート杭1本で済むが、60mともなればアースドリルで穴を掘り、鉄筋の枠を沈め、コンクリートを流す工法を取らなければならない。 そうなると杭1本で、60万円(当時)もかかる。
幸いにもプレス組合に割り当てられた地区は浅い場所で10mほど。深い場所でも18m位で済んだ。
また、建屋だけでなく、重量の重い機械を設置するには機械の基礎も必要で、上屋が出来る前に基礎杭を打つ必要があった。
工場・組合事務所の建設も終わり、昭和52年3月頃からは工場が稼働を始めた。 しかし、当時は交通に難があった。 従業員の出勤については各企業が手当をしても、外部の人が来島するには大変不便である。 例えば、大森駅でタクシーを頼んでも、「帰りが空では…」と断られる始末であった。 そこで、プレス組合は京浜急行に依頼して、午前・午後の数回に大森駅から京浜島までを自主運行してもらうことになった。 のちに、現在のように18協同組合320企業が進出し、連合会が出来る頃には京浜急行がバス路線を入れてくれたので自主運行は消滅した。
さきに述べた様に、プレスの組合員の業種はプレス及び関連業種で、金属プレスの他には、金型・製缶・機械製造・ヘラ絞り・メッキ・エレベーター・ガラスフロスト等、多岐に渉り最新のNC機械の導入をするなどして盛業を極めた。
又、昭和62年代にはベトナム難民(ボートピープル)の受け入れについて、アジア教育財団での基礎教育後、これを引き受けて約100名もの人員を再教育。 各企業に受け入れてもらった。 ある者は金型技術を習得し、CADを駆使してワイヤーカットやNC技術者になり、ある者は高専の奨学生、また、同時に3つの国立大に合格して、現在は某カメラ会社のハノイ工場長として活躍している者もいるとのことである。 現在その殆どが日本に帰化し、日本人として生活をしている。 以後、京浜島にはメッキ協同組合・鋳物協同組合の様に主として事業業態別の18組合が進出した。 しかしながら、以降今日に至るまで、世の経済状態の変遷に弄ばれて撤退する企業も多く、現況は当時に比べれば大きく変わっている。
城南島
総面積 1046,420.11平方メートルで、町名は城南島1丁目から7丁目まである。
城南島は「大井埠頭その2」の名称で、港整備計画の一環として埋立て開発を進められてきたが、昭和50年に「大井埠頭その1」の工事が竣工した頃、岸壁・荷役の使用状況が変わり、必ずしも船舶を接岸させる場所が必要でなくなった。 そこで東京都と大田区が協議を行い、埋め立て地は単なる港湾施設のみでなく、一部は港湾の後方施設、一部は海浜公園、そして一部は工業地区となった。
城南島2丁目の工業地区には主として金属加工関連の集団である「大金工業協同組合」(当初17社)が昭和61年3月設立され、協同組合テクノ城南も昭和63年11月に当初13社で発足をし、経済情勢の変化により多少の出入りはあっても現在に至っている。
又城南島全体としては、港湾区、特殊物資港区(倉庫・運送業を含む)商港区、修景厚生港区(海浜公園等・その景観を整備するとともに港湾関係者の厚生の増進を図ることを目的とする区域のこと)でそれぞれの使命を果たしている。
参考資料 東京港の運営(東京港史抜粋)
青空に羽ばたく 平成5年3月2日 日本工業新聞掲載 東京鐵鋼協同組合
東京都城南金属プレス協同組合専務理事よりの聴き取り
埋め立て地に関する対策の経過(19)平成8年3月 東京都大田区
【記述】 元東京都城南金属プレス協同組合専務理事 株式会社トラスティー会長 鈴木達五郎
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